この年齢になると、すれっからしで感受性も鈍くなるが、久しぶりに感動させられた。西合志町の国立再春荘病院でこの土曜、日曜日に開かれた「くぬぎ文化祭」に、たまたま立ち寄った。主催は同病院の筋ジス病棟患者自治会「筋生会」。入院している患者さんたちがいろんな作品を展示していた。

絵画、写真、手芸品、詩、七宝焼き、絵葉書、彫刻・・・実に多彩な作品が並んでいた。もちろん巧拙はある。でもすべてに共通しているものに気が付いた。みんな力強く、明るいのだ。拙さも幼稚さも吹き飛んでしまう。てらいも気負いもなく、ひとつ、ひとつの作品が心に染み入ってくる。ある意味で芸術ではないか。

筋ジストロフィーといえば手足も体も次第に動かなくなり、いまのところ治療法が見つからない難病だ。電動車椅子に乗った患者さんは子供や青年が多かった。そのほとんどが自由に動き、笑い声を上げている。手が不自由な患者さんたちは口に絵筆や道具をくわえて作品を作るとか。最近ではパソコンを駆使することも多いらしい。作品はこの1年間、趣味やサークル活動の中から生まれた。

文化祭は作品展示のほか、ラーメン、カレー、から揚げなどの模擬店を出し、踊り、マジックショー、仮装カラオケなどさまざまな催しもある。ボランティアや家族の人たちもたくさん、参加し、患者さんたちも、実に楽しそうだった

それにしても、あの明るさはどこからくるのだろう。死に直面した患者さんたちは悩み、悲しみ、悲嘆にくれているはずだと思う。しかし、その影は表向き、どこにもみられない。看護士も「不思議にみんな明るいんですよ」という。恐らく残された日々を考えた時、一日、一日を精一杯「生きる」ということからくる明るさではないかと説明してくれた。それは諦観とか悟りとかいうものとは違うのだろう。死と隣り合わせに「生きる」ことで生み出された作品だからこそ、見る人に感動を与えるのではないか。

かって東京・築地の国立ガンセンターに友人を見舞いに行ったことがある。友人の話では病室や談話室で、みんな病状自慢をするそうだ。痛みがいかに激しいか、余命がいかに短いかを競い合うとか。重症の患者ほど自慢げに話し、ついつい「勝った」「負けた」の感情も。そこに僕が予想していたような暗さはなかったことを思い出した。ガン患者もまた残された日々を必死に「生きる」という意味では筋ジス患者と共通しているのだろう。

そこにいくと、僕の明るさは何と底が浅いことだろう。家庭や会社は楽しく、明るくなければならないということからの明るさであり、いわば業務上の明るさでしかない。コケボウやヒバちゃんとの掛け合いも、そのための仕掛けなのだ。僕は相当、苦労して、明るいように見せかけている。そう、なにを隠そう。実は僕の本性は「根暗」なのだ。驚いただろう。人は見かけだけで判断してはいけないよ。もっとも仮装を続けているうち、知らず知らず身に染み付いたということもありそうだ。

まあ、それはどうでもいいこと。来年は「くぬぎ文化祭」をニュースで取り上げてもらうよう、報道に頼んでみよう。あの感動をぜひみなさんにも感じてもらいたい

コケボウのひとこと

開局来続いている「こどもの詩コンクール」の第1回の最優秀賞は、黒石原養護学校の筋ジスを患った生徒さんでした。彼は詩を書くことだけでなく、現在は同じ学校の仲間とバンドを組んで活躍中と聞きました。お会いしたときに、将来の夢を熱く語ってくれたことを思い出しました。

私も明日のことはどうなるかわからないけど、とりあえず健康に恵まれた体に感謝して、ぶつぶつ文句を言うのをやめてみよう。

根暗を気取るのは元気な証拠?!
社長も今のところは、すこぶる元気!もっともっと働いていただくべく私も頑張ろーっと!