いまKABの1階ロビーで古場田博さんの「遊廓・二本木」作品展が開かれている。9点の作品が展示されているが、連日、沢山の来訪者で賑わっている。しかも単なるお客さんではなく、熱心に見入って、あちこちで「私のおじいさんが」とか「あの店の人は」とか、いろんな会話の輪ができる。いまさらながら二本木の歴史の深さを感じさせる。地元密着を掲げるKABにとっても大変、ありがたい。会期は7日までだったが、その人気に押されて、あと一週間延長して14日までとする。

作品は大きく3つに分かれている。ひとつは二本木遊廓の往時の風景、ひとつは遊廓に関する資料、そして残りが遊女たちの怨念や情意を描いたもの。それぞれが独立していながら、作品展全体が、大正末期から昭和初めにかけての二本木の全てを現す。いまや生き証人もほとんどないだけに、貴重な資料の集積でもある。

一番人気を集めているのが「二本木廓細見」。二本木を俯瞰した地図的な要素を入れた絵画だ。坪井川と白川に挟まれ、中州のようにも見える。5箇所の橋に見張りを立てれば、遊女は逃亡できない。地の利を得たというか、遊女にとっては牢獄に等しかったのだろう。80軒前後の妓楼がこと細かく描かれ、屋号も記入されている。その規模の大きさには驚かされる。おそらく日本の5大遊郭の中に入るだろうと言われる。

往時の風景では「東雲楼のさんざめき」が目を引く。最も高級で、一番大きく25棟もあったという。3階建てで、沢山の遊客、遊女、芸伎、下働きの男女などが出入りし、遊興する様子が良く分かる。東雲楼を舞台にした「東雲楼のストライキ」は全国的に有名だが、この絵画の説明には「明治33年ごろ、自由廃業運動。娼妓600余人、約300人が廃業」とある。あの時代に、金銭に縛られた、か弱い女性が立ち上がって、自由を手にいれたなど信じられない出来事だ。熊本は意外と先進的な土地だったのかもしれない。

「紅灯の街」「二本木廓夜景」では、煌々とした明かりに包まれた二本木の街路が描かれ、まさに「不夜城」の歓楽地当時の文化の中心地だったのだろう。古場田さんの話によると、一流の妓楼で遊ぶ客歌舞音曲に通じ詩歌のひとつもこなす文化人、しかも粋人というだけでなく金持ちだった。熊本の政財官界の大物たちが通ったのだろう。今の僕ではとても行けたものではない花魁にしても、単なる遊女というより、こうした客の相手を務めるだけに品位と格式ある才色兼備の女性だったとか。

こうした華やかさが二本木の「陽」の部分とすれば、「陰」の部分は、ここで働かされた遊女たち口減らしに、あるいは借金のカタに身売りされた女性の嘆き怨念はいかばかりであったろうか。当時は天草の女性が多かったという。「遊女・芸妓百花繚乱」という絵画の説明には「年季明けまであと何年・・・遊女には長い冬だけしかない。春はいつくるのだろう」とある。亡霊のような遊女の群れを描いた「生命の魂」には「伝わりますか・・・わたしの声が」とあり、鬼気迫る感じだ。

遊女の顔だけの「オマージュ」。最盛期には650人前後いたといい、絵画には「だれよりも悲しく、だれよりも無邪気で、だれよりも不幸をいっぱい抱え、這うように行きぬいた遊女たち」として645人の顔が並ぶ。

古場田さんは、二本木の白川の対岸で育ち、ごく小さいころ遊廓の灯火の明るさを記憶している。7年も8年もかけて、県内にある二本木遊廓の資料を探し出し、生き証人4,5人にも会った。東京の吉原、京都の島原、長崎の丸山なども訪れ、調査して回った。集めた資料、スケッチ、聞き書きなどは絵巻物として描き、その長さは20メートルにも及ぶ。今回、展示されたのは、そのごく一部だ。

現在、二本木に昔を偲ぶものはなにもない。かろうじて東雲楼の赤レンガの塀の一部があるだけだ。古場田さんによると、往時の廓の面影を残した建物が現在、1軒だけあるという。屋内に朱塗りの擬宝珠がついた橋もある。昨年秋、台風来襲の際には、取り壊しの話も出たという。もうあまり時間はない。陽と陰の世界の織り交ざった二本木の残された「遺跡」として何とか保存できないだろうか。

コケボウのひとこと

正直、展示会を始める前は、テーマが明るいものではないだけに、お客様の反応が心配でしたが、全くの杞憂に終わりました。
会社のロビーを開放しての展覧会は、初めてのケースでしたが「地域密着」をめざすKABとしては、大成功の感がある展覧会になっています。
しかし「遊廓」なんて、日常触れることのない世界を、絵画によって目の当たりにすると、ほんの何十年の間での時代の変貌に驚かされると同時に「借金のカタ」として身売りされることなく、毎日を過ごせることに感謝したい気になります。
もしもワタシが遊女だったら・・・どうしていたでしょうねぇ。
良きも悪しきも、時代の変遷を「文化」として残していくのは、今を生きる者としての務めのような気がします。