2階の職場に下りて行った。みんな、のびのびと仕事をしており、雰囲気も明るく、楽しそうだ。どうもいつもと空気が違う。と思っていたら、なんとコケボウが東京出張中とか。どんな因果関係があるのかは、知らない。いずれにしても、鬼の居ぬ間のなんとかとやら、今回は、日頃から書きたかったコラムを書くことができる。

なにせコケボウ草花のことになると、幼稚園児並み、ないしは以下の知識しかない。ボクが草花のことを書くと、露骨にいやな顔をする。「フン」と言って、何度か突き返されたこともある。今回、その心配はない。千載一遇のチャンスだ。

梅の花が盛りを過ぎたと思ったら、いまや純白のユキヤナギコブシが天下を誇っている。赤やピンクのボケが彩りを添える。いたたまれずに、熊本市内を流れる坪井川の上流に春を探しに出かけた。土手道は7分から8分まで、ヨモギノビルなど淡い新緑の草に覆われている。柳も芽吹き始めた。

昨年も今頃、同じ土手を歩いたが、今年はちょっと様子が違う。昨年はカラスノエンドウが空色の可憐な花を咲かせ始め、ツクシが ちらほらと顔をのぞかせていた。今年はツクシがいたるところに見られるのに、カラスノエンドウは小さすぎて蕾の片鱗すらない。いったいどういうことなのだ ろう。素人にはよく分らないが、ひょっとしたら、今年は雨が多く、それが微妙に影響しているのではないか。土中の水分が多く、ツクシの成長に適しているの かもしれない。

もうひとつ、気づいたことがある。シロバナタンポポがぐんと増え、あちこちに小さな群落を作っていた。黄色のタンポポは一輪しか見つけられなかった。ご存じのように、在来種のタンポポは急速に西洋タンポポに取って代わられつつある。ということで西洋タンポポが花を咲かせる前に、在来種が盛りを迎えたのではないか。次世代に在来種を残すために努力しているのではないか。所詮はド素人の観察でしかないが、そんなことも考えさせられた。

唐の詩人「年々歳々花相似 歳々年々人不同」と詠んだ。花は毎年、同じように咲くのに、人間は毎年、年を取って変わっていくという意味だろう。しかし、花だって毎年、様相を変えていくのだ。その年々の気象や環境に応じて、少しずつ形状や咲き方を変えていく。正確には「年々歳々花不同」ということだ。しかし、それでは詩になりにくい。花と人生を対比させるのがこの詩の持ち味だから、しかたがないか。

ボクは別に唐の詩人にイチャモンをつけているのではない。実はあまり知られていないが、この詩は「寄言全盛紅顔子 應憐半死白頭翁」と続く。紅顔の頃は全盛を誇っていたのに、今や白髪頭の老人が半死状態になっているのを憐れむということか。ボクもいまだ紅顔の面影を残しつつも、頭髪は薄く、白髪も増えてきた。半死状態も身近になった。

いやいや、コケボウに脅されこき使われている状態は、まさに「半死半生」だ。いまや憐れを受ける存在なのだ。そう考えると、この詩はひょっとしたらボクのことを詠ったのかもしれないと思うようになってきた。

アセリメのひとこと

コラム冒頭と末尾につきましてはノーコメント(笑)ですが、そういうわけでコケボウ姉さんは東京へご出張のため、しばしアセリメにお付き合いくださいませ。(「“不在”じゃなくて“出張”って言っておいてね」と強く念を押されたことは、ここだけの秘密です)
たしかに、私が外で遊び回っていた頃というのは、黄色いタンポポしか記憶にありません。白いタンポポなんて、ほとんど見た事なかったような気がします。在来種を“ウェルカム!”するわけではないけれど、社長の推測どおりに努力しているのだとしたら、それはスゴイことだな〜と、素直に感心させられます。
植物や動物といった自然界というのは、良くも悪くも、その時々の条件に合った流れにのっているような気がします。逆に人間というのは、自然の流れに逆らお うとする傾向が多いような気がするのは私だけでしょうか。自分を守るために他のものを壊してしまったり、無理に自分の居心地がいい形に戻そうとしたり。
環境の変化に伴って、周りも変わり、ともに共生していく努力をすることも大事なのかもしれませんね。