ちょうど一週間前の14日は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日だ。討ち入りに成功した赤穂浪士は大名屋敷に預けられる。細川藩の下屋敷には、大石内蔵助はじめ17人が預けられた。細川藩では、罪人扱いどころか、忠臣として丁寧に待遇する。これに比べて毛利藩は最初は罪人扱いし、長屋に押し込めたらしい。お陰で江戸の人達の人気は肥後藩に集まり、毛利藩も慌てて態度を改めた。切腹後、奉行所から「義士のいた部屋を清めるように」と指示があったが、細川藩は「我が藩の守り神だ」と従わなかった。そういう話が語り継がれ、江戸末期の桜田門外の変の際には、水戸浪士は成功したら肥後藩邸に駆け込もうと計画していたという話もあった。山鹿市の日輪寺には17人の遺髪を納めた遺髪塔があり、いまも2月4日には義士まつりが開かれている。

ところで日本3大仇討としては、忠臣蔵のほかに曽我兄弟の富士の裾野の仇討荒木又右衛門の三重・鍵屋の辻の仇討がある。このうち荒木又右衛門の仇討では、熊本県内のある場所が登場し、仇討の伏線として重要な役割を果たしている。敵役の河合又五郎は岡山から江戸の旗本屋敷に逃げ込む。ところが、そこで旗本と外様大名の争いになり、又五郎は居りづらくなる。さて、どこに逃げるかと言う時、映画や講談などで有名なセリフ「落ち行く先は九州・相良」となった。当時、相良藩というのは、日本の3大急流の球磨川を遡り、追手も簡単には来られない、ということで秘境扱いされたようだ。

又五郎は九州に逃げる途中、三重で荒木又右衛門らの待ち伏せに会い、討たれてしまう。講談本や一部の映画では、又右衛門の36人切りと、鉢巻きに4,5本の手裏剣を挟んだ姿が登場する。しかし、又右衛門側は4人、又五郎側は11人という人数の斬り合いで、又右衛門が切ったのは2人だけだそうだ。

それはそれとして、この仇討話に、球磨・人吉の人達は怒った「我らの郷土のどこが秘境か」と言う訳だ。そこで郷土史家の人達は、懸命に古文書を調べた。その結果、「落ち行く先」という表現の他に「落ち着く先」というのもあった。その比率は、ほぼ半々に近いそうだ。微妙な表現の違いだが、「落ち着く先」というのには、「平和で、豊かで、住民の人柄もよく、住みやすいところ」という意味もある。これなら理解できるということだろう。よくできた話だが、ある郷土史家に聞いた話だから、まんざら嘘でもあるまい。郷土愛の強い人達というのは凄いという思いもする。ちなみに又五郎が来た時に住む予定だった住居跡というのが、人吉の近郊にあって、いまも石垣が残っているそうだ。

実を言うと、ボクはつい最近まで又右衛門の仇討話は、講談や浄瑠璃、映画の上での作り話だと思っていた。そのうえで、どういう訳か「落ち行く先は九州・相良」という部分だけが、頭にこびり付いていた。東京から熊本に引き上げた際に、突然、思い出したのだ。まさかこれが史実だったとは。さて、今の若い人がどれだけ知っているか。

おそらく広報担当のヤッコダコにとっても、チンプンカンプンな話だろう。ヤッコダコよ、アナゴ社長の権威を笠にきて、あまりボクを苛めると、そのうち仇討をしてやるぞ。覚悟しておけ。

ヤッちゃんのタメ口

p>おいおい、歴史の話でオレ様がチンプンカンプンだと?高校の時に郷土史研究会の部長をつとめていたオレ様だぞ!!(ちなみに英会話研究会との掛け持ちだった!)オレ様の歴史好きを知らないのか?オレ様の趣味の1つが“城巡り”と知っているのか?荒木又右衛門、良く知っているぞ。新陰流の使い手だよな。山田風太郎の小説・魔界転生では、主人公・柳生十兵衛の強敵として現れたぞ。後はな…えっ?オレ様のうんちくはもういいって?会長のコラムがかすんでしまうって?そうかそうか、じゃあこの辺で勘弁してやろう。それにしても、かつてはKAB内での権力の最高峰に居たと言うのに社員のことを良く知らないなんて。社員一人一人のことを良く理解されている社長様とは大違いだな!!(何度も言うが、オレ様は社長様派だ)

しかし、改めて思うと熊本は“剣豪”に縁のある場所だな。高名な剣豪でタイ捨流の開祖・丸目長恵(蔵人佐)は晩年を錦町で過ごしたし、熊本市には宮本武蔵が五輪書を記した霊厳洞があるし…。歴史好きのオレ様にとっては多くの魅力がある土地なんだな~、熊本のことが改めて好きになったぜ!!