このところ会合や飲み屋で会う友人、知人からよく同情の言葉を掛けられる。「いやあ、大変ですね」とか「大丈夫ですか」とか「負けずに頑張ってください」とか。要するに、ボクの出身母体である朝日新聞の一連の謝罪問題についてだ。朝日を離れて、もう10年以上たった。いまや一昔前のことだ。にもかかわらずボクの背中には「朝日出身」というレッテルが貼られているように感じる。

記事の取り消し謝罪のことは、みなさんよく御存じだろうから、繰り返しは避ける。しかし謝罪を招いた記事の掲載は、報道機関としては自殺行為であり、ジャーナリズム根源的あり方が問われる問題であることは強調しておきたい。将来的にみても少なくとも3つの重大な心配課題などを抱え込むことになった。

一つは朝日新聞に対して過激で過剰な批判中傷が予想されることだ。正当な批判であれば当然のことだが、便乗して感情的な批判が横行することも考えられる。これまでも朝日新聞は「左寄り」とよく言われてきたが、そのことに拍車がかかりはしないか。「この際、徹底的に叩いておこう」ということにもなりかねない。安倍政権になってから秘密保護法集団的自衛権など戦前回帰とも言われかねない政治が相次いでいるが、そうした問題批判まで封じ込められる不安がある。

二つ目に日本の報道機関は、体制批判が強い朝日・毎日と、体制推進の立場が目立つ読売・産経二つの流れにあるとよく言われる。ジャーナリストの重要な任務の一つ権力の監視機能と言われる。今回の謝罪で朝日新聞の記者が意気喪失して内向きになるとしたら、その任務もないがしろになる恐れがある。そうなると二つの流れのバランスが壊れる。言論界にとってもその及ぼす影響は大きい。大げさに言えば民主主義の在り方にも一石を投じることになろう。

三つ目に、朝日新聞の信頼性大きく揺らいだ。信用と信頼性が減殺されるとなると、朝日新聞は読者に見放され、相当な部数減に陥る心配も出てくる。ひいては広告収入にも深刻な影響が出てくる。経営の先行きが不安定で、不安も生じてくる。一度、喪失した信頼性回復するには、相当な努力と時間が必要だ。場合によっては経営を縮小して、再起を期すということにもなりかねない。いわばイバラの道を辿ることになろう。それでも朝日新聞がこれまで果たしてきた役割を考えると、何としても再建してもらいたい。

さて、なぜこんな事態を招いたのか。第3者委員会で検証してもらうとしている。しかし、それだけでは不十分だ。何よりも大事なのは、社員自ら自己検証し、を、どう改めていくかだ。ボクごときが言う前に、当然社内論議で始まっていると思う。根底にある原因、由来については、かって朝日新聞に身を置いた経験から、ある程度、推察できることもある。ただここで述べることはやめておこう。

それはそれとして、KABもマスコミであり、言論報道機関であり、ジャーナリストの一員である。似たような道を辿らないという保証はない。今回の件を「他山の石」として、身の回りを改めて見直すことも必要だと思う。

S姉さんのひとこと

一連の件について、同じマスコミの一員として、身の引き締まる思いです。

失った信頼は、一朝一夕に戻るものではないと思います。

私たちも、特別顧問の言葉通り、今回の件を「他山の石」として、改めて身の回りを見直すことから始めたいと思います。